20040804句(前日までの二句を含む)

August 0482004

 蝉しぐれ防空壕は濡れてゐた

                           吉田汀史

の声、しきり。八月になると、どうしても戦争の記憶が蘇ってくる。といっても、私は敗戦時にはまだ七歳で、先輩方に言わせればぬるま湯のような記憶でしかないことになるのだろう。それでも、東京に暮らしていたから、連日の空襲の記憶などは鮮明だ。白日の空中戦も、何度か目撃した。庭先に掘られた「防空壕」には昼夜を問わず、空襲警報のサイレンが鳴れば飛び込んだものである。立派な防空壕じゃないから、四囲の壁などは剥き出しの土のままだった。夏場には、入るとひんやりとはしていたが、文字通りに泥臭かった。つまり、じめじめと「濡れて」いたのである。おそらく作者も、そんな感触を思い出しているにちがいない。そしてこの句の勘所は、「蝉しぐれ」の「しぐれ(時雨)」に引っ掛けて「濡れて」と遊んだところにあるだろう。現実には「蝉しぐれ」に濡れるわけはないから、一種の言葉の上での遊びであるが、しかしこの言葉遊びは微笑も呼ばなければ苦笑も誘わない。蝉しぐれの喧噪の中にも関わらず、何かしいんとした静けさを読む者の心に植え付けて座り込む。間もなく戦後も六十年。もはや往時茫々の感無きにしも非ずだが、茫々のなかにも掲句のように、いまだくっきりとした体感や手触りは残りつづけている。それが、戦争というものだろう。俳誌「航標」(2004年8月号)所載。(清水哲男)




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